ミラーマンと私
 
 
私の青春譜 − 不眠不休の「ミラーマン」

昭和四十四年夏、それが元気な姿をしていた母との最後の別れであった。
今でもあの日のことは昨日の事のように思い出す。

東京で芝居の勉強をしていた私は、実家のある北秋田郡森吉町米内沢に
三日間の休暇を利用して久しぶりに帰った。 ところが母は留守であった。

旅行に行っているらしく、私が東京に戻 る日の夜、帰ってくるとの事であった。
そして三日の時が過ぎ、鷹巣駅のホー ムで母の乗る列車の到着を待った。  
だが、無常にも私が乗る鷹巣駅発十時過 ぎの夜行列車「第2津軽」がホームに到着してしまった。 
重い心を残しながら列車に乗り込み、デッ キからもう一度振り返るとホームを懸 命にかけてくる人影、母である。必死 に駆けてくる母の姿を私は、ドアのガラ スに顔をこすりつけ追った。 
手を振り ながら列車を追う母の姿が小さくなっていく。 
三十数年経つ今でも鮮明に脳裏に蘇ってくる。

昭和四十四年十一月、研修のため 東宝歌舞伎の中村芝鶴先生の指示の もと、
明治座の舞台に立った。初舞 台である。中日が過ぎた頃であったと思う。 
あのホームでの母のことが 気になったこともあり、電話を入れてみた。 
受話器から聞こえてきたのは姉の声であった。数十秒の沈黙の後、
「母さんが入院した」と云う声が受話器から響いてきた。 
父から「信之にはまだ云うな」と固く口止めされていたらしい。 
姉は受話器の向こうで泣きながら「もう駄目かもしれない・・・駄目だって・・・」。 
ショックだった。電話を切った後、涙がとめどなく出てきた。 
十九歳の時であった。


千秋楽を終え、その日の夜行列車に乗るため上野駅に急いだ。 
初めて貰ったギャラで、途中ガーベラの花の造花を母のために買った。 
列車の堅いシートに腰をおろし、車窓に目を移したとき、
母との思い出が走馬灯のように脳裏をかけめぐったのを覚えている。 
夜行列車にはつらい思い出が多すぎる。そのせいか今でも夜行列車は嫌いだ。

昭和四十五年、私はTV映画「柔道一直線」でデビューをした。 
きっかけは、帝国劇場で「宮本武蔵」に出演中、一緒に楽屋にいた友人が私に内緒で、「柔道一直線」のオーディションに私の名で応募してしまったのである。 
オーディションは、練馬区大泉にある東京東映撮影所でおこなわれた。審査員席には、TBS、東映の担当プロデューサーや監督等々がずらりと並んでいた。私の番があまわってきた。
 
ちゃんと台詞は云えるのだろうか・・・と胸は不安でいっぱいだった。 
緊張の色を隠し、審査員の前に立った。
TBSの番組部長が「石田君は、柔道をやっていたんだね。
ちょっと型を見せてくれないか」と云うので
二、三手の型を披露した。
「はい、わかった。もういいよ。次。」
オーディション用の台詞も云わせてもらえなかった。
ダメだと思い、当時住んでいた東十条のアパートに帰ると東映から電話が入っていて、台本を渡してこれからのスケジュールを伝えたいので撮影所に来るように、とのメッセージを受けた。
正直、ダメだと思っていたので戸惑ったのを覚えている。

クランクインするまでの一ヶ月の間、特訓、特訓の毎日だった。 
芝居の特訓、殺陣の特訓・・・と精神的にも肉体的にも疲れ、食事もできない程の日々が続いた。 
そしていよいよクランクイン。初日は荒川の土手で主人公の一条直也との出会いのシーンだった。 
何もかもが初めての経験だったから緊張の連続で、とにかく無我夢中で臨んだ。 
その日の撮影も終わりに近ずき、後は主人公との立ち回りのシーンを残すのみとなった。 
それは、一条直也に投げられた大沢健治(私の役)が、空中で一回転して橋の欄干の上に立ち、
そのまま欄干の上を橋の中央まで走っていく、というシーンだった。 
生憎、前日降った雨の影響で、その日の川は凄まじいほどの濁流と化していた。 
川へ落ちたら一巻の終わり・・・無事に終了したが、とにかく怖かった。

昭和四十六年夏、「ミラーマン」の撮影が開始された。 
この作品をやることになったのは忘れ物をしたことがきっかけだった。
当時、ミラーマンの代理店をやっていた旭通信社に、所属していたプロダクションのマネージャーと挨拶に行っ際、マネージャーが旭通信の担当デスクの机の上に私の資料を忘れて絵きてしまったのである。
そこへ私たちと入れ違いに入ってきたミラーマンのキャスティングプロデューサーが、忘れていった私の資料を見て
「今度の主役、この子でいこう」と云って下さったのがミラーマンをやる事になったキッカケだったと聞いている。 
第一回目の放送は昭和四十六年十二月六日(日曜午後七時)でサブタイトルは「ミラーマン誕生」。視聴率は三六パーセント位だったように記憶している。

ミラーマンの撮影は一年間続いた。 
休みはほとんどなく、撮休の時はどこかのデパートでサイン会だった。 
しかし、毎日毎日「怪獣だ!!円盤だ!!」などとやっていると嫌になってくることも多々あった。 
お恥ずかしい話だが、撮影中、三日間ばかり仕事をすっぽかし、
スタッフの皆さんに大変な迷惑をかけたこともある。 
プロとしては失格であったと思う。


私とミラーマン1

ミラーマンの撮影は世田谷区砧にある、東宝美セン(現、東宝ビルト)でおこなわれていました。
ここのスタジオには、SGMのセットや御手洗家の内部のセットが組まれていた・・・・
もちろん京太郎の部屋も・・・。


昭和46年の夏、第一話、サブタイトル『ミラーマン誕生』の撮影がクランクインし たのです。
撮影初日は、京太郎の部屋のセットからだったと記憶しています。
数日間のセット撮影が順調に続き、いよいよセット最後の日です。
京太郎は、御手洗博士から「君は人間ではない!二次元の世界のお父さんと、三次元の世界のお母さんとの間に生まれたミラーマンなのだ!」と言われ、京太郎は「自分はミラーマンじゃない!
普通の人間なんだ!」と言って京太郎の部屋で嗚咽するシーンです。
ベットに縋り泣き伏す京太郎の頭上で、雷光が光り父親の声が聞こえて来るのです。
雷光は照明部がセットが組まれた二重の上で電気を通した鉄と鉄をショートさせつくるのですが、タイミングが上手くいかず、数度のテストがおこなわれました。

いよいよ本番です。
監督のヨーイ・スタートの声と共に私はテスト通りのタイミングでベットに泣き伏しました。そこに雷光です。
所が、テストが数度続いたためにショートさせた鉄が溶けだし私の頭の上に落ちてきたのです。 本番中なので声をだすことも出来ず苦しっかった想い出があります。
もちろん終了後直ぐに病院行きです。
第一回作品のそのシーンをみると、うすく頭から煙が立ちこめているのが見えるかもしれません。

 
 




私とミラーマン2

あれから30数年の月日が過ぎたが、
あの当時のことが昨日のことのように脳裏に浮かんでくる。
あまりにも遅刻が多すぎて助監督と一緒に住まわされた事・・・。
毎日毎日、怪獣だ円盤だと芝居をするのに疑問を感じ数日間蒸発したこと・・・。
俳優としては最低の行動でした。

撮影をスッポカシ長野にいる友人の家に身を寄せていた三日間・・・、
自分のとった行動に後悔の三日間でした。
私が不在のためアフレコができず、代わりに助監督の中島さんと云う方がミラーマンのかけ声を入れてくれたそうです。(中島さん、有り難う)
ですから、何話目か忘れましたが一部中島さんの声が入っています(笑)。
当時、撮影のない日はサイン会などで地方回りをしておりました。確か広島での仕事の時だったと思います、羽田発の朝早い飛行機に乗り目的地に向かっていた時です。
5.6歳の女の子が僕の座っていた座席の所に来て、『お兄ちゃん、ミラーマンに変身して・・・!』と云うのです。
『ここで変身したら飛行機が壊れちゃうからだめだよ』と云うと、自信に満ちた顔で
『大丈夫!ミラーマンが助けてくれるから!!』これには僕もこまってしまった思い出が有ります。(笑)
撮影は、特撮と本編の2班で撮っていました。
ですからミラーマンの中に入っている人は西条さんと云う方
がやってくれていたのです。
その西条さんが、撮影中怪我をして入院したことを聞き見舞いに行ったら、ベットに腰を固定されやつれた顔で寝ていた。
西条さんに会うのは半年ぶりでしたが、初めて逢った時の西条さんは、大柄な肉付きのいい人でした。でも、ベットに寝ている西条さんは痩せていて別人のように見えたものです。そうとうハードな仕事だったのでしょう。
私自身も、殺陣は吹き替え無しでやっていましたので体中生傷のたえる日はありませんでした。





 
 
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